「いる」という恐怖——京極夏彦さんが放つ、理性と怪異の境界線。
京極夏彦さんといえば、妖怪や怪異を題材とした重厚な作品群で知られる作家です。
その京極さんが、シリーズ作品とは切り離された完全な新作長編として世に送り出した本作が、『猿』です。
タイトルは一語、「猿」。
それだけで、何か不穏なものがすでに始まっているような感覚を覚えます。
本作は、倦怠感に苛まれ引きこもり状態となった夫を抱える主人公・松永祐美が、曾祖母の訃報をきっかけに、地図にも載らない山奥の限界集落へと赴く物語です。
日常の歪み、旅路に生じる違和感、そして村で待ち受けるもの——。
全てが丁寧に積み上げられ、やがて読む者の足元をじわりと揺るがしていきます。
「怖い話」というより、「怖さそのものの構造」を見せられるような一冊といえるかもしれません。
あらすじ
主人公・松永祐美の夫、隆顕は精神に異常を来し、休職中です。
倦怠感が続き、引きこもり状態にある夫を、祐美は献身的に支え続けています。
そんなある日、隆顕が突然こう口にしました。
「猿がいる」
自宅の天井裏に猿がいる、というのです。
祐美自身も、得体の知れない何かを時折感じていました。
確かに、何だか妙な気配がする——。
そんな折、曾祖母の訃報が届きます。
遺産相続の話し合いに呼ばれた祐美は、隆顕のことを案じながらも家を出ました。
曾祖母が住んでいたのは、岡山県の山奥に存在する「祢山村(ねやまむら)」。
人口構成も村の成り立ちも特殊で、地図にも記されていない限界集落です。
再従姉妹や弁護士らと合流し、村を目指す道中で、祐美は次々と違和感を覚えるような出来事に遭遇します。
予感、暗闇、幽霊、陰謀論、因習、事故物件、呪物——。
それら全てを理性で切り捨てようとしながら、車は山奥へと進んでいきます。
そして到着した村でも、曾祖母の屋敷でも——何かがいたのです。
著者について
京極夏彦さんは、1963年北海道生まれの小説家・意匠家です。
現在は印刷博物館館長、日本推理作家協会監事を務められています。
1994年に『姑獲鳥の夏』でデビューされ、以降、数多くの名作を世に送り出してきた作家です。
受賞歴は非常に充実しており、『魍魎の匣』で第49回日本推理作家協会賞長編部門、『嗤う伊右衛門』で第25回泉鏡花文学賞、『覘き小平次』で第16回山本周五郎賞、『後巷説百物語』で第130回直木三十五賞、『西巷説百物語』で第24回柴田錬三郎賞、そして『遠巷説百物語』で第56回吉川英治文学賞を受賞されています。
これだけの賞を複数のジャンルにまたがって受賞されているのは、京極さんの表現の幅の広さを示しているといえます。
代表作としては、妖怪や怪異を題材に「憑き物落とし」を行う探偵・中禅寺秋彦(京極堂)が活躍する〈百鬼夜行〉シリーズ(京極堂シリーズ)が特に広く知られています。
そのほか、〈巷説百物語〉シリーズや『嗤う伊右衛門』、『遠野物語remix』なども代表作として挙げられることが多い作品です。
本作『猿』は、こうしたシリーズ作品とは切り離された完全な新作長編小説であり、京極さんの新たな一面を感じさせる作品として注目されています。
読みどころ
日常の歪みから始まる恐怖の設計
本作の恐怖は、最初から怪異として提示されるわけではありません。
「何だか妙な気配がする」という感覚から、物語は静かに、しかし確実に動き始めます。
夫の「猿がいる」という言葉も、精神を患った者の言葉として処理しようとすれば、できないわけではない。
けれども、主人公・祐美の心の片隅に、その言葉は引っかかり続けます。
日常のわずかな歪み、説明のつかない気配、理性で押さえようとしても消えない違和感——。
そういった積み重ねが、読む者の感覚をゆっくりと侵食していく構造になっています。
怪異を「でかい音と突然の映像」で驚かせるような手法とは正反対の、じわじわと蝕む種類の恐怖です。
京極さんが長年の作品群で磨いてきた「恐怖の設計術」が、シリーズの文脈を外れたこの新作においても、惜しみなく発揮されているといえます。
理性と怪異の拮抗
本作において特に印象的なのは、主人公・祐美が一貫して「理性」で物事を切り捨てようとする姿勢を持っていることです。
予感、幽霊、因習、呪物——そういったものを、祐美は次々と「論理的に説明できる何か」として処理しようとします。
しかし、旅が進むにつれ、理性で説明しようとする行為そのものが、じわじわと綻びていきます。
「説明できないもの」を「説明できる」と思いたい人間の心理——その切実さと脆さが、丁寧に描かれています。
京極夏彦さんの作品には、知識や言葉によって怪異を「落とす」という構造が繰り返し登場します。
本作では、その「落とす」という行為が、どれほど難しく、どれほど人間の存在と密接に絡み合っているかが、主人公の視点を通して見えてくる仕掛けになっているといえます。
読み進めるほどに、「理性」と「怪異」のどちらが現実に近いのか、判断がつかなくなっていく感覚があります。
地図にない村という舞台の重力
岡山県の山奥に存在する「祢山村」は、地図にも記されていない限界集落という設定です。
人口構成も村の成り立ちも特殊、という説明だけで、すでに十分な異質さがあります。
「地図にない」という事実は、単なる辺境の演出ではなく、「既知の世界の外にある」ことを示しています。
現代において、地図に記されていない場所というのは、それだけで非日常の領域に踏み込む入口として機能します。
道中で主人公が遭遇する出来事の数々も、村に近づくにつれて性質が変わっていくように感じられます。
最初は「気のせい」で済む違和感が、少しずつ「気のせいでは済まないもの」へと変化していく。
舞台そのものが、物語の緊張感を構成する重要な要素として機能しています。
そして、村に到着した後の曾祖母の屋敷では、物語のトーンがまた一段と変わっていきます。
「何かがいる」という事実が、やがて逃げようのない形で立ち現れてくるのです。
こんな人におすすめ
「静かな怖さ」が好きな人
派手な演出ではなく、じわじわと日常に染み込んでくるような恐怖を好む人に向いている作品です。
本作の怖さは、大きな事件や衝撃的な展開によるものではありません。
気配、予感、説明のつかない違和感——そういったものが積み重なってできあがる恐怖の密度が、本作の大きな魅力です。
ホラーのジャンルにおいて「雰囲気」を何より重視する人にとっては、特に響く作品といえるでしょう。
京極夏彦さんの世界観を入門したい人
〈百鬼夜行〉シリーズや〈巷説百物語〉シリーズは大部な作品群であるため、なかなか手が出しにくいと感じる人もいるかもしれません。
そうした人にとって、シリーズの前提知識が不要な完全新作長編である本作は、京極さんの文章世界に触れる入口として適しているといえます。
京極さんの語り口の独特さ、恐怖の構造の作り方、理性と怪異の拮抗——それらを、コンパクトに体験できる一冊です。
民俗的・土着的な怪異に興味のある人
因習、呪物、地図にない村——こういったキーワードに反応する人には、特に刺さる作品といえます。
土着の文化や因習が絡み合う怪異の物語は、それ自体が一つの世界観を形成しています。
祢山村という架空の限界集落が持つ固有の空気感と、そこに息づく何かの存在感は、民俗学的な怖さに惹かれる人の興味を引き続けることでしょう。
「説明のつかないもの」に不安を感じる人
幽霊が出てきて怖い、というよりも、「何が起きているのか分からない」ことへの不安を駆り立てられるような物語が好きな人に向いています。
本作は、全てが明快に説明されるわけではなく、読み終えた後も何かが残るタイプの作品といえます。
その「残るもの」こそが本作の本質かもしれません。
注意点
爽快感や明快な解決を求める人には向かないかもしれない
本作は、全ての謎がすっきりと解決されるミステリーとは異なる性質を持つ作品です。
怪異の正体が論理的に説明され、後味爽やかに完結する——というタイプの物語を求めている場合は、やや食い違いが生じる可能性があります。
本作の魅力は、解決の爽快感よりも、「説明できないものを前にしたときの人間の不安と思考」を追体験することにあると考えられます。
結末に何らかのカタルシスを強く求める読み方をすると、やや物足りなさを感じる場合もあるかもしれません。
心理的に重い描写が含まれる
夫の精神的な不調、引きこもり状態、怪異による追い詰められ感——こういった描写が積み重なる物語です。
精神的に疲弊している時期に読むと、少し重く感じられる可能性があります。
コンディションの良い時期に、腰を据えて読むのがおすすめです。
おわりに
『猿』は、一言で言い表すことが難しい作品です。
ホラーと呼ぶこともできる。
ミステリーの要素もある。
しかしどちらかに収めようとすると、何か大切なものがこぼれ落ちていく感覚があります。
本作の中心にあるのは、「見えないものをどう扱うか」という、非常に人間的な問いではないかと思われます。
精神を病んだ夫が言う「猿がいる」という言葉を、祐美はどう受け止めるのか。
地図にない村で、説明のつかない何かに直面したとき、理性はどこまで機能するのか。
京極夏彦さんが長年にわたって書き続けてきたテーマ——知識と怪異、言葉と存在、理性と感覚——が、新たな形でこの一冊に凝縮されているといえます。
シリーズの文脈を離れた完全な新作として、京極さんが何を描こうとしたのか。
それを確かめるためだけでも、手に取る価値のある作品といえるでしょう。
静かに、しかし確実に、何かが近づいてくる——そんな読書体験が待っています。
この記事があなたの読書選びの参考になれば幸いです。
おわり
ジャケドロ661
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