『ゾンビ回収婦』小砂川チトさん|芥川賞作家が描く”もうひとつの現実”
ゾンビの骸を拾い集める女が見た、世界のほんとう。
この世界には、見えていないものがある——そんな確信を静かに植えつけてくる小説が、小砂川チトさんの『ゾンビ回収婦』です。
AIに侵食された近未来の世界で、夫とともに職を失った「わたし」が辿り着いたのは、ホテルでゾンビの骸を回収するという奇妙な仕事でした。
「あり得ない」設定と「切実なほんとう」を同居させる作風で評価を集めてきた小砂川さんが、第175回芥川賞を受賞した作品です。
荒唐無稽に見えるその世界観の底には、今という時代を生きる人間の孤独や喪失が、ひっそりと息をしています。
SFとも純文学とも一概に言い切れない独特の質感を持つ本作は、「ゾンビ」という言葉から連想する派手なホラーとは、まったく異なる手触りの物語といえます。
掃除婦として世界を美しく保つ「わたし」の前に、もうひとつの現実がたち顕れてくる——その過程を、ぜひじっくりと追ってほしい一冊です。
あらすじ
「この世界の秘密をあなたに教えたい。」
そんな一文から、この物語はひそやかに幕を開けます。
語り手の「わたし」は、ホテルでたったひとりの掃除婦として働いています。
その仕事の内容は、ただ部屋を清潔に保つというものではありません。
殺されたゾンビの骸を拾い集め、世界を美しく保つこと——それが「わたし」に課された役割です。
舞台となるのは、AI〈やつら〉によって人々の仕事が侵食されていった社会。
「わたし」は夫とともに職を失い、そのホテルへと流れ着きました。
ゾンビの骸と向き合い続けるうちに、「わたし」の日常には少しずつ異変が生じはじめます。
現実のひびわれ目から、もうひとつの現実が姿を現してくるのです。
「あり得ない」世界の設定を丁寧に積み上げながら、物語は「わたし」という一人の女性の内側へと深く潜っていきます。
ネタバレは控えますが、読み進めるほどに「ゾンビ回収」という仕事が持つ意味の重さが、じわじわと浮き上がってくる構成になっています。
著者について
小砂川チト(こさがわ・ちと)さんは、1990年生まれ、岩手県盛岡市のご出身です。
慶應義塾大学文学部を卒業後、同大学院社会学研究科で心理学を専攻されました。
その学術的な背景が、人間の内面を精緻に描き出す作風に活かされているといえます。
2022年、『家庭用安心坑夫』で第65回群像新人文学賞を受賞しデビュー。
同作は第167回芥川賞候補にも選ばれ、鮮烈な印象を文学界に残しました。
2023年には『猿の戴冠式』で第170回芥川賞候補となり、受賞には至らなかったものの、その名は着実に読者の間に広まっていきました。
そして2026年、『ゾンビ回収婦』で第175回芥川賞を受賞。
デビューからわずか数年でその頂点に届いた、いま最も注目される書き手のおひとりです。
「あり得ない」設定の奥に切実な「ほんとう」を宿す作風が持ち味とされており、現実とも幻想とも断言できない独自の文学世界を構築し続けています。
心理学への深い造詣と、岩手という土地が持つどこか辺縁的な感覚が、小砂川さんの作品に特有の「静かな異質感」を生み出しているのかもしれません。
読みどころ
AI侵食社会という現代の鏡
本作の舞台となるのは、AI〈やつら〉に人間の仕事が奪われていった社会です。
「わたし」と夫がともに職を失うという状況は、荒唐無稽な未来の話として読み流せないリアリティを帯びています。
AIによる労働市場の変容は、すでに現代社会でも議論が続いているテーマ。
小砂川さんはそれをSF的な誇張によって描くのではなく、一人の女性の生活感覚に密着した視点から描き出しています。
「やつら」という呼称に込められた距離感と恐怖が、物語全体に通奏低音のように響いています。
技術の進化という不可逆な流れの中に取り残された人間の姿——本作はその切実さを、ゾンビという奇妙なモチーフを通して映し出しているといえます。
「ゾンビ回収」という仕事の哲学
ゾンビを回収する、という行為に最初は戸惑う読者も多いかもしれません。
しかし読み進めるうちに、その仕事が持つ独自の倫理観や哲学が見えてきます。
殺されたゾンビの骸を丁寧に拾い集めるという行為は、何かを「なかったこと」にするのではなく、確かに存在したものとして扱うことへの意志の表れのようでもあります。
世界を美しく保つという使命を帯びながら、「わたし」は骸と向き合い続けます。
その繰り返しの中に、喪失の痛みや、見えないものへの敬意、そして生きることへの問いが重なり合っています。
一見グロテスクに思えるモチーフが、いつしか深い静謐さを帯びていく——そのグラデーションこそ、小砂川さんの筆が最も力を発揮する領域といえます。
「もうひとつの現実」が滲み出す語り口
本作の語りは一人称です。
「わたし」の目を通してのみ、この世界は描かれます。
その語りは淡々としていながら、どこか秘密めいた色合いを帯びています。
「この世界の秘密をあなたに教えたい」という冒頭の一文がそれを予告しているように、物語は静かに、しかし確実に「もうひとつの現実」へと向かっていきます。
現実と幻想のあわいを行き来するような感覚——それは小砂川さんの前作にも通じる手触りですが、本作ではAIという現代的なテーマと組み合わさることで、より鋭い問いが浮かび上がります。
見えているものだけが「現実」なのか、という問いを、読者はゆっくりと突きつけられていきます。
こんな人におすすめ
芥川賞作品を読み続けている方
第175回芥川賞を受賞した本作は、純文学の最前線に位置する一冊です。
小砂川さんはデビュー作から一貫して独自の世界観を守りながら、回を追うごとに受賞に近づいてきた書き手でした。
その到達点ともいえる本作は、芥川賞の系譜をたどってきた読者にとって、特別な意味を持つ作品となるでしょう。
SF的な設定の純文学に惹かれる方
AIや近未来といったSF的な設定を、エンタメとして消費するのではなく、文学的に掘り下げた作品を好む方に向いています。
本作はSFのガジェットを物語の装置として使いながら、描いているのはあくまでも人間の内側です。
ジャンルの越境を楽しめる読者にとって、読み応えのある一冊といえます。
喪失や孤独をテーマにした作品が好きな方
職を失い、見慣れない仕事の中で異質な現実に向き合う「わたし」の物語は、喪失と再生のテーマを内包しています。
静かな文体の中に積み重なる孤独感が共鳴する読者は、本作を深く味わえるかもしれません。
感情を直接的に語るのではなく、情景や行為を通じて内面を滲み出す書き方を好む方に、特に合う作風といえます。
小砂川チトさんの前作を読んだ方
『家庭用安心坑夫』や『猿の戴冠式』を読んで小砂川さんの世界に惹かれた方にとって、本作は待望の一冊です。
「あり得ない」設定の奥に「ほんとう」が宿るという作風は本作でも健在で、芥川賞受賞という節目の作品として、改めてその全体像を確認できる機会にもなります。
当ブログでも小砂川チトさんの作品世界への関心は高く、今後も注目し続けたい書き手のおひとりです。
注意点
「ゾンビ」に派手なアクションを期待すると肩透かしかもしれません
タイトルに「ゾンビ」とある以上、ホラーやアクション要素を期待する方もいるかもしれません。
しかし本作は、いわゆるゾンビ映画的なエンタメとは大きく異なる質感の小説です。
暴力的な描写や恐怖演出が中心ではなく、静謐な語りと内省が物語の核をなしています。
「ゾンビ」はあくまでも比喩的・文学的な装置として機能しており、エンタメとしてのゾンビを期待すると読後感が異なると感じることがあるかもしれません。
独特の世界観に馴染むまで時間がかかることがあります
小砂川さんの作品は、現実と幻想のあわいを揺れ動く独特の語り口が特徴です。
冒頭から「ゾンビ回収」という設定が当然のように描かれるため、世界観への適応に少し時間がかかることがあります。
ゆっくりと丁寧に読み進めることで、物語の輪郭がじわじわと鮮明になっていく作品です。
短時間でさっと読み切るよりも、静かな時間を確保して向き合うのが向いているかもしれません。
おわりに
『ゾンビ回収婦』は、タイトルの奇抜さとは裏腹に、読後に深い静けさを残す作品です。
殺されたゾンビの骸を拾い続ける「わたし」の物語は、AIに侵食される世界という現代的な問いを背景に持ちながら、最終的には「見えないものとどう向き合うか」という、普遍的な問いへと着地します。
小砂川チトさんがデビューから一貫して探求してきた「あり得ない設定の奥に宿るほんとう」——その到達点として、本作は高く評価されています。
第175回芥川賞という評価は、その文学的誠実さへの応答といえるでしょう。
掃除婦として世界を美しく保とうとする「わたし」の視線は、清潔さや美しさとは何か、そして「なかったこと」にされていくものたちへの眼差しでもあります。
ゾンビの骸を丁寧に回収するという行為が、次第に深い意味を帯びていく——その静かな変容こそ、本作の最大の読みどころといえるかもしれません。
近未来の設定を持ちながら、今という時代の手触りを鮮明に映し出す一冊。
この独特の世界観を、ぜひ静かな時間の中でたゆたうように読んでほしい作品です。
この記事があなたの読書選びの参考になれば幸いです。
おわり
ジャケドロ661
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